宮城県在住の新野央果(にいの おうか)くんが「ダム博士ちゃん」として、2022年10月1日放送の「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」に出演します。
ここでは、ダム博士ちゃん・新野央果くんのプロフィール、2022年10月1日の授業の内容について紹介します。
ダム博士ちゃん・新野央果(にいの おうか)のプロフィール
ダム博士ちゃん・新野央果くんは宮城県仙台市の12歳、中学1年生です。
2700箇所以上のダムを研究して知り尽くしたというダム博士ちゃんで、自分で考えた理想のダムを絵に描き続け、その数は1000基を超えるそうです。
地元宮城県の鳴子ダムで2022年5月2日に行われたライトアップ点灯式に参加しています。
昨日の鳴子ダムライトアップ点灯式は、大崎市長の伊藤康志様、実行委員会会長の高橋鉄夫様、東北地方整備局河川部長國友優様より祝辞と挨拶を頂戴し、
地元小学生とダム博士ちゃんのカウントダウンで点灯。
全国からお越し頂いた皆様、報道関係者の皆様、地域の皆様ご協力ありがとうございました。 pic.twitter.com/oelKt9LENi— 国土交通省 鳴子ダム管理所公式 (@MlitNaruko) May 3, 2022
ダム博士ちゃん・新野央果くんは、過去2020年11月28日の博士ちゃんにも出演しており、今回が2回目の出演になります。
絵画コンクールで受賞
ダム博士ちゃん・新野央果くんは絵を描くのも得意のようで、小学校2年生の時に絵画コンクールで賞をもらっています。
- 平成29年度 緑と花いっぱい絵画コンクール みやぎ生協賞 小学校低学年の部
作品名: 花いっぱいのすてきな丘
ダム博士ちゃん 過去(2020年10月1日)の授業内容
ダム博士ちゃん・新野央果くんが絶景ポイントとしても人気のダムを紹介しました。
豊稔池(ほうねんいけ)ダム
場所: 香川県観音寺市大野原町五郷
豊稔池ダムは、堤長145.5m、堤高30.4mのコンクリート造溜池堰堤(ためいけえんてい)です。
現存する日本最古の石積式マルチプルアーチダムで、両端部を重力式、中央部が5個のアーチと6個の扶壁(バットレス)で建造されています。
その構造形式は、昭和前期における堰堤建設の技術的達成度を示していることから農業土木史上の価値が非常に高く、平成18年12月19日に重要文化財(建造物)に指定されました。
豊稔池ダムの放流は不定期で、天候によって規模が変わります。
湯田ダム・湯田貯砂(ゆだちょさ)ダム
場所: 岩手県和賀郡西和賀町杉名畑
湯田ダムは、堤体の高さ89.5mで、吉田茂内閣時に計画された巨大事業で、鉄道移設や住民移設など11年かかって昭和39年に完成しました。
4月下旬に観光放流が行われ、毎秒50トンもの水が放流されます。
湯田ダムのダム湖である錦秋湖の上流には湯田貯砂ダムがあり、このダムは、7月~10月頃、夜に七色にライトアップされ、ダムとしては初の日本夜景遺産に認定されています。
宮ヶ瀬ダム
場所: 神奈川県愛甲郡愛川町半原
宮ヶ瀬ダムは横浜市等の水源確保などを目的に村を移転させて造られたダムで堤体の高さは156mで国内6位です。
観光放流は毎秒3万リットルで6分間続いたそうで、黒部ダムを超えて観光客数が日本一になったといいます。
現在はダム付近への立ち入りは制限さていて、観光放流も中止しています。
ダム博士ちゃん 2022年10月1日の授業内容
黒部ダムは日本でもっとも有名なダムとして知られており、年間100万人の観光客が訪れています。
建設に関わった作業員は延べ1000万人と言われていますが、そこには数々のドラマがあったといいます。
当時の過酷な工事状況を記録した非公開資料「工事誌」をもとに、ダム博士ちゃん・新野央果くんが俳優の石原良純さん、3時のヒロイン福田麻貴さん・かなでさんとともに黒部ダムの非公開エリアに潜入しました。
黒部ダム建設に立ちはだかった難ポイントを巡り、巨大なダムはどのようにして造られたか、その秘密を解き明かしました。
黒部ダムとは
場所: 富山県中新川郡立山町芦峅寺
黒部ダムは富山県黒部川の最上流の標高1470mの地点に建設された水力発電専用のダムで、北アルプスの立山連峰と後立山連峰に挟まれた黒部渓谷にあります。
ダムから約10キロメートル下流の地下に建設された黒部川第四発電所に水を送っていますが、この発電所の名称にちなんで、黒四ダム(くろよんダム)とも呼ばれています。
1956年に着工し、7年の歳月をかけて1963年に完成しましたが、堤高(ダムの高さ)約186mは現在も日本一で、約2億立方メートルという大貯水容量を誇っています。
黒部ダム工事の激ムズポイント
ダム博士ちゃん・新野央果くんが、黒部ダム工事の際の激ムズポイントを解説しました。
3000m級の山中に建設
黒部川の豊富な水量と大きな落差、そして、上流の幅が広くて下流の幅が狭い地形など、ダムに適していることから、以前からダム建設の構想があったといいますが、厳しい自然条件に阻まれて実現困難とされてきました。
ところが、当時の高度経済成長下で生じた深刻な電力不足を解決するため、当時の金額で総工費500億円を投じる一大プロジェクトとして建設が決定されました。
1956年に着工、1961年1月に送電を開始し、7年の歳月をかけて1963年6月に完成しましたが、その困難な工事のために171人の殉職者を出したといいます。
1日に40cmしか掘り進めることができなかったトンネル
黒部ダム建設には建設資材を運び込むためのトンネルが必要とされたため、輸送路として長野県大町市からダム地点に到達する大町ルートが計画されましたが、その途中、北アルプスを貫く5,430mの大町トンネル(現関電トンネル)は非常な困難が予想されました。
そして、最大の難工事といわれたこの掘削工事が開始されたのですが、工事開始から半年ほど経った1957年5月、岩盤の中で岩が細かく割れ、地下水をため込んだ軟弱な地層で毎秒660リットルの地下水と土砂を噴出する「破砕帯」に遭遇しました。
噴出する水を抜くために、本坑から何本ものパイロット坑(本坑の掘進に先立ち、本坑周辺に掘削する小径トンネル)が掘られ、百本以上のボーリングが行われた他、薬液注入による軟弱地盤の固化も行われた結果、ようやく水量は徐々に減り始め、1958年5月、大町ルートが開通したといいます。
この間、わずか80mほどの距離を掘り進むのに7ヶ月を要したといいますが、このエピソードは「黒部の太陽」として映画化されました。
人力で立山一ノ越峠を越えて物資を輸送
厳しい工期のため、ダム付近の工事は大町ルートの完成を待つことはできず、1956年夏頃から山に入って大町トンネルの迎えぼりを進めています。
同時期に工事用道路の建設も行い、1957年6月には仮排水路工事にも取り掛かっていますが、これらの工事に必要な資材や食料などは、人力で標高2700mの立山一ノ越峠を越えて運ばれました。
370万トンのコンクリートで造る
ダムの建造には370万トンのコンクリートが使われていますが、このコンクリートを打設する場所まで運ぶ作業がたいへんでした。
そこで、ダムの両岸に柱を立ててケーブルを通し、ケーブルに20トンのコンクリートが入るバケツを吊るし、そのバケツでコンクリートを打設する位置まで運ぶという作業を17万8700回繰り返して370万トンのコンクリートを運んだといいます。
ダムの堤体の形
当初の計画では単純な円弧状のアーチダムでしたが、1959年に起こったフランスのマルパッセダム決壊事故を受け、ダムのアーチが両岸に直接取り合わないように、端にウイングを付ける形に変更となりました。
ウイング部は水圧を堤壁で受けるアーチダムではなく、ダムの重さで支える構造の重力式ダムとなっています。
また、アーチ部を川下に向かって傾斜させることにより、水圧を両岸ではなく下向きの力へと変えることでダム下部の岩盤で支えさせる構造となっています。