2021年6月19日放送の「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」に「戦国戦術博士ちゃん」として吉原海人くんが出演します。
ここでは、戦国戦術博士ちゃん・吉原海人くんがどんな子なのか、2021年6月19日の授業の内容について紹介します。
戦国戦術博士ちゃん・吉原海人(よしはら かいと)はどんな子?
吉原海人くんは、東京都在住の10歳、小学5年生です。
戦国武将にはまって、戦国時代の本を100冊以上読んだそうです。
特に戦術に興味があるようで、あらゆる戦術を分析しまくったとのことです。
信長や家康のように有名ではなくても、知恵で戦った武将がたくさんいることを知り、その知恵の面白さにハマったとのことです。
戦国戦術博士ちゃん 2021年6月19日の授業内容
戦国戦術博士ちゃんが、戦国武将の「目からウロコなスゴい戦術」を解説します。
- 騎馬の大軍を一瞬で大混乱させた戦術
- 8千人の援軍で8万人を打ち破った戦術
- 信長軍の10万人を壺で食い止めた戦国最強鉄砲隊の戦術
- あるモノを見せただけで敵軍を戦意喪失させた豊臣秀吉の戦術
騎馬の大軍を一瞬で大混乱させた戦術
羽柴秀吉 VS 淡河定範
天正7年(1579年)の淡河城(おうごじょう)の戦いは、織田信長に中国の毛利征伐の命を受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟・秀長が淡河定範が立て籠もる淡河城を攻めた戦いです。
城を守る数百人の淡河勢に対し、城を包囲する羽柴勢は数千人で、逃げようにも蟻のはい出る隙もなく、絶体絶命の状態でした。
この時、秀長軍の騎馬の大軍を見た淡河定範は、城下の雌馬を集めるよう配下に指示し、集めた雌馬をいっせいに敵の騎馬隊の前に放ちました。
当時の騎馬隊の馬は去勢をしていない雄馬だったため、雌馬を見て興奮して大パニックになったとのことです。
その隙をついて、淡河勢は城に火を放って脱出に成功します。
8千人の援軍で8万人を打ち破った戦術
北条氏康 VS 上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏連合軍
天文14年9月(1545年10月)、関東管領・山内上杉家の上杉憲政、扇谷上杉家の上杉朝定、古河公方の足利晴氏、その他関東諸大名連合軍は約8万の大軍で、小田原を本拠地とする有力戦国大名・北条氏の支城・河越城(埼玉県川越市)を包囲しました。
ここを失えばいずれ本拠地の小田原城も危うくなるという絶体絶命のピンチに、翌天文15年4月(1546年5月)、北条家の当主・北条氏康は8千の援軍を差し向けるのですが、この援軍を四隊に分け、自らその三隊を率いて山内・扇谷の両上杉勢の陣へ夜襲をかけます。
この時、氏康は兵に鎧を脱がせて音が出ないようにして、敵に気づかれないようこっそりと近づいて夜襲をしたといいます。
圧倒的な兵力差に楽勝ムードで油断していた連合軍はこの戦術で大混乱に陥り、扇谷上杉軍では当主の上杉朝定が討死するなど大損害を被り、上杉憲政は辛くも戦場を脱出し上州平井に敗走します。
その上で、残る一隊が足利晴氏の陣に「勝った!勝った!」と叫びながら突入したため、浮足立った足利軍はあっけなく敗れて本拠地の古河へ敗走したといいます。
これは「河越夜戦」(かわごえよいくさ)と呼ばれ、8千の軍勢で10倍の8万の大軍を撃破した戦いとして有名です。
信長軍の10万人を壺で食い止めた戦国最強鉄砲隊の戦術
雑賀衆 VS 織田信長
天正5年2月(1577年3月)、織田信長は10万の大軍を率いて紀州の雑賀攻めを行いました。
この地に根ざす雑賀衆は戦国時代屈指の鉄砲集団として知られていますが、この時、雑賀衆の雑賀孫一は迫りくる織田の大軍に備え、あらかじめ雑賀川(和歌川)に仕掛けをしていたといいます。
この仕掛けとは、川底に前後左右、半間置きに杭をうち、梁木をかけわたした柵と、「壷埋け」という、川底に壷や桶を埋めておくというものでした。
そんなこととは知らず、果敢に川に踏みこんだ信長軍の騎馬はこれらの柵や壺に引っかかり、前につんのめったり、引っ掛かったりして横転する者が続出して大混乱になったそうです。
そして、この混乱を見た雑賀勢はこの時とばかり容赦なく銃撃を浴びせ、その結果、信長軍は多大な損害を被って退却しました。
これは「雑賀川(和歌川)の戦い」として知られていますが、この後はゲリラ戦に持ち込まれ、武士とは全く違う戦い方をするこの集団にはさしもの信長も手を焼いたようです。
あるモノを見せただけで敵軍を戦意喪失させた豊臣秀吉の戦術
豊臣秀吉は、短期間で敵の目前に城を築き、敵の戦意を喪失させるという戦術を得意とし、何回か用いています。
博士ちゃんが言う「あるモノ」が城なのか、であればどれを取り上げるのか、楽しみです。
石垣山城(いしがきやまじょう)
豊臣秀吉 VS 北条氏政・氏直
天正18年(1590年)、天下統一目前の秀吉は小田原征伐の最終段階で北条氏政・氏直親子が籠る小田原城を包囲しました。
この時、城に籠る北条勢5万に対し、包囲する秀吉軍は21万の大軍だったといいます。
ただ、大軍といえどもいざ攻城戦となれば多数の損害が出てしまうのでそれを避けるため、秀吉は小田原城の西3kmにある石垣山(笠懸山:かさがけやま)の山頂に一夜で城を築いて敵の戦意を喪失させたといいます。
この石垣山城は小田原城を見下ろせるという戦略的に効果的な位置にありました。
実際は、築城には80日かかったといいますが、小田原城に立て籠る北条方から気付かれないように小田原城側の山の木を伐採しないで築城を進め、ほぼ完成した時点で一気に木を伐採して城を見せ、まるで一夜にして城が出来上がったかのように見せかけたといわれています。
石垣山城は6月26日に完成したのですが、7月5日に北条氏は降伏し、小田原城を開城し、戦は終わりました。
城の完成から10日ほどで戦は終わったわけですから、「一夜城」の効果の大きさがわかりますね。
博士ちゃんが紹介した他にもあった!秀吉が城で敵の戦意を喪失させた話
番組で博士ちゃんは紹介しなかったのですが、他にも秀吉が城で敵の戦意を喪失させた話を紹介します。
益富城(ますとみじょう)
豊臣秀吉 VS 秋月種実
天正15年(1587年)、九州征伐の際、秀吉が九州の戦国大名・秋月氏の支城・岩石城をわずか1日で落としたことによって、秋月氏は同じく支城の益富城を破却して本拠地の古処山城へ退却しました。
翌日の夜、古処山城から見下ろすと益富城下の大隈町は火の海となっていましたが、実際には、その火は秀吉が大隈町の町民に命じて一斉に篝火を焚かせたものだったといいます。
そして、夜が明けると火の海は消え、破却したはずの益富城は見事に修復された姿を見せていたといいます。
さらに、水のように見せた白米を滝のように流させて、益富城に十分な水があるように見せかけたといいます。
これらの演出に騙された秋月氏はすっかり戦意喪失し、降伏したといいます。
墨俣城(すのまたじょう)
織田信長 VS 斎藤義龍
永禄9年(1566年)、美濃攻略のため、信長に命じられた秀吉が墨俣に一夜城を築いて敵を驚かせたのは有名な話ですが、この時は戦意喪失とまではいかなかったようです。
墨俣川の上流から築城に必要な木材をいっせいに流し、それを一夜で組み上げて築城したといわれていますが、「信長公記」などの信頼できる史料には墨俣の城に関する記述が全くないため、今では実在しなかったのではないかといわれています。
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